アンコールワットのあるシェムリアップという町はつい最近までポルポト派が拠点としていましたが、今では遺跡ツアーで一気に外国人のツアーが増えました。最近までアンコールワットへ行くとなるとタイ国境からバスだったのですが、なんと国際空港ができたのです。私たちもバンコク経由でプロペラ機に揺られ、夜カンボジア入りしました。
しかし、内戦終結間もないシェムリアップ国際空港はタラップも出てこない狭い滑走路をひた走り空港施設に駆け込む状態でした。すぐそばでホーチミン行きのプロペラ機がエンジン回していて「…こ…これが国際空港…飛行機に轢かれる〜〜!!滑走路を走るなんてここはエリア88!?」いや、あっこは砂漠だったけどね。
そしてこれが空港施設内部です。プレハブです。天井では扇風機が回っています。でも、これは出国ゲート。入国ゲートはもっとすごくて、到着は夜だったのですが日本の田舎の無人駅のようでした。なぜに写真がないか、それはそれどころではなかったから。
なんといってもパスポートは命の次に大事なので、しょっていたディバックの中、厳重に保管してました。映画「キリングフィールド」では主人公はパスポートの写真が感光してしまったばっかりに内戦のカンボジアに取り残されてしまったのだから。入国ゲートにはいかめしい軍人だか警察だかわかんない人がいて声高に威嚇しているのですがクメール語で言われてもなーんもわかりません。入国審査で何人もの人が書類の書き直しをさせられていました。こまった、私らは二人だけなのだ。添乗員さんなんて気のきいた人なんかいない。しかも、クメール語。さすがカンボジア入国侮りがたし!
と思っていたら、ちょいちょいと私らを物陰から呼ぶ警察がいるじゃあありませんか。やばい!この国はかつて英語が話せたり、教師や医者だったりすると問答無用で殺されたのだ。うちの旦那は英語はさっぱり分からないが一応日本の進学校の教師なんである。あ、私の仕事もヤバイかもしれん。逆らっちゃあいかん!ポルポトめ、自分だってフランスに留学していたインテリ階層のくせに。パリで共産主義にかぶれ自国民を粛正しまくってカンボジアの人口は半数まで減り平均寿命50歳などとと織田信長の時代ような国にしたのだ、とカンボジアの人が聞いたら本当に怒るようなことをぐるぐる考えていました。でも、本当だよなあ。
そしたら、パスポートと入国カードを見て、ちょいちょいと書き足すと「千円」とゆうたんである。この国では入国の時にも空港使用料を取るのか!?しかも日本円!?あとでガイドの人に聞いたら、どうもこれは賄賂らしいのだ。私らは偉そうな警察や軍人の人に訳の分からない言葉でがんがん言われこづかれるよーにずらっと列になった入国審査待ちの人とは別の入り口をとおり、はらはらしながらパスポートを返してもらったのでした。気分はすっかりキリングフィールド。「生きているってすばらしい。」
遺跡のところにも警官はたくさんいて、おかげでシェムリアップの治安はカンボジアで一番と聞いたのですが、それでも人影が少なくなると警察手帳を2ドルで観光客に売っていたのでした。こんなふーに政府の役人がとんでもないから共産主義革命がおこったんだろーが!と怒りそうになりましたが、ガイドの人が「警官は給料が安い。」とフォローしてました。みると警官が家族で住んでいる駐在所は草葺きの掘っ建て小屋のようで、給料だけでは食べていけないから鶏を飼ったり遺跡の池で魚を飼っていました。日本で公務員の給与や身分を充分に保障するのは人材を集め、自分の職務に誇りと責任を持たせて金のために悪事を働かせないためだそうです。(それでも悪いコトする奴はするけど)警官になるのも大変だったろうに、生活のために誇りを売らなくてはいけない公務員。国を守る人たちに充分な給料を払えないこの国はまだまだ貧しいのだと思ったのでした。
このようにカンボジアの第一印象はとんでもないものでしたが、考えてみたら数年前まで戦争してたんだもんなあ。それなのにそんなに暗い印象がなく、みんな一生懸命勉強して、働いていました。コワイと思った警官も、派出所の写真を撮らせて欲しいと頼んだらフレンドリーにオッケーしてくれて、草葺きの小屋の中では奥さんがたくさんの子供と一緒に働いていて、壁にはシアヌーク陛下の写真と王妃様の写真が飾ってあったのでした。なんか色々あるんだなあ、でもがんばってるんだなあ、とちょっと感動。
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