雪月花  

 

女王へいかはひるがいちばんながい日と
よるがいちばんながい日になると
せいなるおしろのほしふるおへやにこもられて
わたしたちのしあわせをおいのりくださるのです。

スモルニィ女学院 初等部の教科書より


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 その夜、オスカーは自邸の居間のソファーの上にやや投げ遣りな空気を漂わせながら寝転がっていた。一脚のソファーでは彼の長い手足を収めきることは出来ず、はみ出したそれらは無造作に外の空間へと投げ出されていた。
 傍らに置かれたサイドテーブルの上には、現在この部屋唯一の光源となっている電気スタンドと、束ねられたレポートと幾冊かの本がこれまた乱雑に置かれていた。オスカーは閉じていた目を開けると、その本の一冊へと手を伸ばし――既に栞など挟まずとも、自然に開いてしまうほどに癖が付いてしまったページを開けた。そしてすっかり暗記してしまったその内容に、今一度目を通した。

「えらくリリカルな物を読んでいるじゃないのさー」
 ソファーの背後上方から突然声が降ってきた。オスカーは露骨に眉を潜め、訝しみの表情を顕わにした。
 揶揄を含んだその声の主が誰なのかは、起き上がって顔を確かめるまでもないことであったが、館の執事には「今日は誰も部屋に通さぬ様に」と言い渡していた。それなのに主の言いつけを破って他人を通してしまうとは……尤も相手がこの彼――夢の守護聖・オリヴィエでは致し方なかったのかもしれない。
「これのどこが『叙情的(リリカル)』なんだ?」
 手にした本を再びテーブルの上に戻しながらかなり険のある声でいらえを返すが、相手はまったく気に留めていない。オスカーの返事には答えず、自分のペースで話を次の話題を振ってくる。
「あんた、今日執務時間が終わると速攻で聖殿を出ていったでしょう。だからこれ渡せなかったからね、わざわざ持ってきてあげたんだよ。ありがたく思いなさい」
 その言葉と同時にオスカーの面前に、酒瓶が差し出された。ラベルに印刷された銘柄にチラリと目を遣ると、それが最極上のシャンパンだと言うことが分かった。その文字に誘われる様にオスカーはゆらりと半身を起こした。
「ほんとは寂しい夜を一人で過ごすんだろうから一緒に飲もうって誘おうと思ったんだけど――――?!」
「―――?!」
 祝いの品を渡す手と受け取る手、その両方の動作が突然止まった。

 この居間の片隅に、彼ら二人以外の人の気配があったのだ。

 二人はその方向――バルコニーとそこに通じる大きな窓、閉じられたカーテン――を見た。厚地の遮光性のカーテンの裾が僅かに揺らいでいる。風が吹いて揺らしている…そんなわけはなかった。
 有り得ない動きを示すそれを、二人の守護聖は無言で見守った。しかしカーテンにはそれ以上は何ごとも起こらない。不審な揺れも直ぐに収まっていた。
 大の男がただ顔を見合わせるという少しばかり居心地の悪い沈黙が続き、そしてそれは沈黙が始まった時と同じ唐突さで終わった。
「…くくくくくっ」
 オリヴィエが身を屈めて笑い出した。窓の方向から目を離せないでいるオスカーを尻目に思う存分笑ったあと、呆ける同僚の手にシャンパンの瓶を押しつけた。
「――――ご相伴に与るのはまた今度にするわ。じゃあ、ハッピーバースデー☆」
 言いたいことだけ言ったオリヴィエが部屋を完全に出て行ったのを見届けると、オスカーはシャンパンの瓶をテーブルの上にそっと置いた。息をスーッと吸い込み、ふーーーっと閑かな部屋に故意に響き渡る様に吐き出し、ソファーから立ち上がった。

「陛下、その様なところで何をなさっているのです?」

 オスカーは窓辺に向かって歩き出しながら、そう声を掛けた。

◇◇◇

 呼び掛けにカーテンが大きく揺れ、その陰から金色の輝きが現れた。真白のサテンとシフォンを合わせた羽根の様なドレスに、華奢な銀のハイヒール。金の髪には小さなティアラが冠せられている。たった今終えたばかりの大冒険に興奮しているのか、その翠緑の瞳はこの薄暗い部屋の中でも分かるほどにきらきらと輝いていた。
(よくもまあ、この様な格好で植え込み伝い、バルコニー伝いでこの部屋までやって来られたものだ)
 オスカーは呆れるを通り越して、半ば感心しながら目の前の少女を見つめた。
『飛空都市』と呼ばれる不思議な大地でその素質を見極める試験を受け、女王として神鳥の宇宙を受け継ぐに相応しいと認められたばかり少女。彼が炎の守護聖としての忠誠を捧げた相手――――。

 やや(…と言うのは実のところ控えめ且つ敬意を表した上での表現であるが)活発すぎる嫌いのある新しい女王陛下は、歴代の女王達と異なりその姿を女王宮の奥深くに隠すことはしなかった。
 女王試験の頃と同様に、公園や森、守護聖達の執務室やその私邸と言った至るところにその姿を現し、人々と気さくに話をしていた。だから、今夜…十七歳の少女が出歩くには遅い時間という点では多少問題があったとしても…彼女が、炎の守護聖邸にやって来たことに関しては、特段奇異なことではなかった。
 そう。これが『普通の日』であったのならば。

 厳しい視線で相手を睨み据えながら、オスカーは更に問いを続けた。
「今日は女王宮の[星の間]で一日天に祈りを捧げられる日のはずでしょう?それなのに、何故陛下は今ここに?!」
 この日時に在るべき場所に居ない女王に、彼は険しい口調で詰問した。女王はその気迫に一瞬尻込みしそうになったが、すぐに気を取り直しこちらも負けじと一歩前へと踏み出した。
「『大切な約束』があったんです!」
「定められた祈りの場から抜け出してしまうほどの『大切な約束』なんですか?!」
「そうです!」
 けんか腰の言葉の応酬が続く。互いに一歩も譲らないまま、宇宙を統べる女王とその騎士は睨み合っていた。

 このままでは埒が明かないとオスカーは、翠緑の瞳を見据えたまま今一歩その人に近づこうとした――が、女王の方でその目をプイッと逸らせた。
「――――私にとっては『大切な約束』だったんです」
 それまでと打って変わった様子で、小さな声でポツリと呟く。驚きの眼差しを自分に向けるオスカーの脇を通り、つかつかと部屋の中央まで進んでいった。そしてサイドテーブルに置かれたままのシャンペンの瓶を手に取った。
「お誕生日おめでとうございます――ってオスカー様に言うことが」
 その声と重なる様にシャンペンの蓋が「ぽんっ」と小気味良い音を立てて、薄闇の部屋の中を勢いよく跳んだ。

    ――それは飛空都市の森の湖での小さな会話――
    「オスカー様のお誕生日って12月21日なんですか」
    「ああ、もう今では祝ってくれる家族(もの)もいないが、な。
    男共に祝われてもあまり嬉しくないものだし」
    「じゃあ、私が毎年、オスカー様にお祝いの言葉を言います。
    『お誕生日おめでとうございます』って」
    「お嬢ちゃんのその可愛い声で祝われたら本望だな」
    「何があっても絶対に!
    だからその日はオスカー様もちゃんとお家にいて下さいね。
    執務(おしごと)は別として」
    「楽しみにしているよ」

「私にとっては『大切な約束』だったけど、オスカー様にとっては女王候補の言葉に対する単なる社交辞令だったんですね。ごめんなさい、勝手に勘違いして、こんなところまで押しかけて。女王の仕事を放棄したと心配させて……」
 詫びの言葉は少しずつ語尾が小さく消え入りそうになっていく。だけどオスカーからは、肯定の言葉も否定の言葉も――何のいらえもなかった。
「…ロザリアにはちゃんと『30分だけ』ってお願いして出てきたから大丈夫です。私にとって、この夜の一番長い日に宇宙の皆の幸福を祈ることとオスカー様のお誕生を祝うこと、同じ位大切なことだって彼女知っているから。
 でも、もう来年からはこんなコトしません。安心して下さ…い……あっ、きゃあ〜!ごめんなさい!!!」
 綿々と連ねられてきた謝罪の言葉の最後の一つは、その対象が異なっていた。
 今開けたシャンペンの瓶から、当然といえば当然の如く、シャンペンが泡となって流れ出していたのだ。話に夢中になっていた女王が我を取り戻した時には、辺りはシャンペンの水たまり状態――オスカーがサイドテーブルの上に置いていたレポートの束や本は、水を吸ってふやけた状態になっていた。
 女王は取り敢えず瓶をテーブルの上に戻すと、慌てて本に手を伸ばし、肩に掛けていたシフォンのショールで拭き始めた。

◇◇◇

「陛下およし下さい。それはそのままで結構ですから」
 オスカーも慌てて駆け寄って、女王の行為を押し留めようとする。
「でも、これって大切なお仕事の本でしょう?」
 表紙に書かれた文字を見ながら、女王はその手を拒もうとした。
 それ程厚さもないソフトカバーの本は来年の『天文年刊』だった。この聖地がある主星の星都の天空と大地の動きを数字にして示したもの――彼女が『仕事の本』と理解しても、彼らの仕事の質から言えばあながち間違いとは言えない。だが――――。

 なおもしつこく本を取り返そうとするオスカーを避けようとした瞬間、女王はうっかり本を取り落としてしまった。
 開き癖が付いたページを下にして、ばさりと音を立てそれは床に落ちてしまう。二人の手が同時に本に伸びたが、一瞬早く女王の白い手がそれを取り上げた。
「あーあ、また中身が汚れてしまったわ。ごめんなさい」
 シャンパンの雫を拭き取ろうとした手が、目に触れた本の内容に、ふと止まった。
「…これって?」
 女王はそのページと目の前にある瞳を何度も交互に見比べた。薄蒼色のその中には、彼女のすべてを排しようとする如く、先程まであった厳しさはすっかり消え失せていた。

「ねぇ、オスカー様。来年の夜が一番長い日<冬至>は12月22日――なんですね?」
 女王は本に書かれている情報を読み上げた。
「御意」
 更に女王はその視線を机の上のレポートの束へと移し、自慢の2.0の視力でそこに書かれた文字を読み取った。
「再来年も、その次の年も、[星の間]に籠もって祈りを捧げる日は12月22日なんですね?」
「御意」
 しかつめらしくオスカーは答えるが、その効果のほどは彼女が部屋に来た当初の半分以下だろうと自覚していた。

 満足げにパタンと両手で本を閉じると女王はそれをオスカーへ返した。苦笑を浮かべながら本を受け取る彼に、女王は女王宮への帰還を告げた。
「じゃあ、ロザリアとの約束があるし[星の間]に戻りますね」
 しかし来た道――バルコニーの方へと帰ろうとする女王に、彼は慌てて声を掛ける。
「陛下、玄関からお帰り下さい!」
「大丈夫ですって♪」
 後を追ってくる彼を気にする様子もなく、女王はカーテンを引き窓を開けた。そしてバルコニーに出るとようやく、くるりとオスカーを振り返った。
「それにこの場所で行うのが一番最適な仕事を今からするんです。――これがなかったらロザリアだって、今日、あの[星の間]から私のこと…たとえ30分とはいえ…出してくれるはずもなかったし」
 何のことかオスカーが問う間もなく、女王はその両手を漆黒の空に差し上げた。ぼんやりとした柔らかく暖かな光りが、まるで天使の翼の様に彼女の背中の辺りから溢れてくる。

 すると―――…、

 やがて―――…、

 

 何もなかった空間から、ちらりちらりと白いものが落ちてきた。
 オスカーはバルコニーから身を乗り出す様にして、空を見上げた。
(…羽根?いや……雪?)
 無意識の内に差し出された手のひらの上に、最初の一片(ひとひら)が舞い降りてきた。
「じゃあ、オスカー様。最後にもう一度、お誕生日おめでとうございます」
 その呼び掛けにハッと振り向けば、女王はバルコニーの手摺りに手を掛けているところだった。「危ない」と声を掛ける暇もなく、彼女は両手に力を入れてそれを乗り越えた。一般の建物の三階分程度の高さのあるバルコニーから、女王はぽんと勢いよく飛び降りた。
 オスカーの目の前でその身体は、ふんわりと羽根の様にゆっくりとした速度で地面を目指して落ちていく。先程身に纏った天使の翼――女王のサクリア――が彼女を重力から守っているらしい。
 とんっと、つま先から大地に降り立つと女王は上から見下ろしている蒼い瞳を見上げた。安心させる様に大きく手を振りながら、「おやすみなさい。良い夢を――――」と声を掛け、彼の方からも手が振り返されたのを見届けると、女王宮を目指して粉雪が舞い散る中を駆け出した。

◇◇◇

 オスカーは白く輝く小さな背中が闇の中に消えて見えなくなるまで――そしてその後も、バルコニーに佇んで女王が作り出した魔法(サクリア)の雪が彼の世界を彼女の色に染め上げるのを見つめ続けていた。

(それにしても何故雪(これ)が『この場所で行うのが一番最適な仕事』なんだ?代々の女王陛下は[星の間]でこの作業をされていた…ということは、あの場所が女王のサクリアを安定させるのに適した場所だから…のはずなのに?)
 あの時の彼女の言葉に、小さな疑問符が彼の頭に浮かんだ。しかし――――、

(まあいい。そのことは来年のこの日に、一晩掛けてじっくりと聞き出せばいいのだから)
 そんな、女王の騎士という立場にはやや相応しからぬ不埒な想いを抱きながら、この上なく幸福な気持でオスカーは誕生日の夜を終えた。


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女王へいかのこうふくは
なつの日はかがやく光のしずくとなって、
ふゆの日はやさしいしいゆきとなって、
わたしたちの上にふりそそがれるのです。

+ FIN +

2004.12.12.