You are my only place




その眼差し
その優しさ
その声を思う時


少し疲れた
あなたの横顔に
幸せ感じてる



鬼の撹乱    口の悪い者の中でもボキャブラリに富んだ面々は、笑いながらそう言った。
確かに、前代未聞の出来事だった。
    誰にも劣らぬ強靭さを誇る炎の守護聖が、聖地や飛空都市には有り得ない"風邪"で倒れる、など。
多忙で疲労した身体に鞭打って、首座の名代として様々な職務を遂行していたのが祟ったのかもしれない。如何に強靭であっても、彼とても人間なのだから。
聖殿にて、そんな滅多にない出来事を知らされた女王候補のひとりは、その日の予定を全てキャンセルして彼女にあてがわれた寮へ駆け戻った。
そして数時間後、再び姿を現した彼女は、その手に大事そうにバスケットを抱え、あやふやな記憶を頼りに炎の守護聖の私邸を目指して歩き出したのであった。


「…これは、アンジェリーク様。如何なさいました?」
なんとか辿り着いた炎の私邸の執事は突然の来客に驚いた様子ではあったが、すぐに気を取り直して笑顔を向けた。
「こんにちは。あの…オスカー様のお加減が悪いってお聞きして…お見舞いに伺ったんですけど」
「そうですか…とりあえず、中へどうぞ」
「いえっ、これを渡していただくだけで結構なんです。私が勝手に押しかけただけですから、そこまで図々しいことは出来ません」
慌てて手を振る少女に、執事は困ったように眉を寄せた。
「そうおっしゃられても…アンジェリーク様にお茶の1杯も出さずにお帰ししたなどということが旦那様のお耳にでも入りましたら、私どもが叱責されます」
アンジェリークは知らない事であるが、以前たった一度だけ彼女がこの館に招かれた時から、彼女はこの炎の館の使用人達の間で絶大なる人気を勝ち得ている。
彼らは、少女の存在を主の側へと望んでいる    主の真実を感じるが故に。
少女を館に招く機会があれば、それを逃すまいというのが、彼らの一致した見解だった。
「それに、あの方も、アンジェリーク様がお側にいらっしゃったほうがお喜びになるでしょうから」
「はぁ…それじゃあ…ちょっとだけ」
恐縮しているアンジェリークを玄関ホールへと促し、執事はメイド達に短く指示を送ると、彼女を客間へと案内して何処かへと姿を消した。おそらく、オスカーに来客を告げに行ったのだろう。
まるで最初からアンジェリークの来訪を知っていたかのような絶妙のタイミングで、彼女の元によく冷えたアイスココアが運ばれる。少しずつ口に含みながら待っていると、ほどなくして執事が戻ってきた。
「お待たせいたしました、アンジェリーク様。旦那様がお部屋の方にお通しするようにとのことですので、ご案内いたします」
「は、はいっ」
促され、アンジェリークは横に置いたバスケットを掴んで勢い良く立ち上がった。


『ど、どうしよう〜…お部屋って、お部屋って…寝室、よね… いくらなんでもそんな所まで入るなんて、私、無作法じゃないかしら…』
ぐるぐると頭の中で考えが渦巻いている。
しかし、考えても部屋が遠くなるわけではないため、アンジェリークたちはすぐにオスカーの部屋に着いてしまった。
執事が静かに扉をノックする。
「…旦那様、アンジェリーク様をお連れいたしました」
「ああ…入れ…」
「失礼いたします。…アンジェリーク様、どうぞ」
緊張を隠しきれない表情のままアンジェリークが部屋に入ると、広いベッドに少しだけ体を起こして座っているオスカーの姿が見えた。
表情には出していないが、その肌の色からかなり発熱しているであろうことが読みとれる。
「…よう、お嬢ちゃん。わざわざ来てくれたのか」
「オスカー様…」
アンジェリークはとととっ…とベッドサイドに駆け寄り、オスカーの額に手を当てた。熱っぽい眼差しでオスカーは少女を見つめている。
その手に触れる体温の高さに、アンジェリークはさっと顔色を変えた。
「…ひどい熱です。お薬は?」
「さすがに飲んだぜ。心配ない…」
「駄目です! 執事さん、氷水と洗面器とタオルを下さい! ちゃんと冷やさなくちゃ…オスカー様、横になっていてください」
アンジェリークの口調には、オスカーや執事に口を開かせない強さがあった。
アンジェリークがオスカーに毛布を掛け直しながら横になるように促している間に、執事がメイドを呼ぶ。少女は持ってきたバスケットをストッカーに置き、ブラウスの袖のボタンを外してそでをたくし上げると、メイドから受取ったタオルを氷水の張られた洗面器に浸した。
力を込めてぎゅっとタオルを絞ると、オスカーの額に乗せる。オスカーは気持ちよさそうに目を細めた。
「…どうですか? 冷たくて気持ちいいでしょう?」
「…ああ、そうだな…」
あまり表情には出していないものの、オスカーはかなりの高熱で、実際の所は少なからず苦しい。
薬の効果もあるだろうが、アンジェリークがタオルを乗せて暫く経つと、彼はうとうとしはじめていた。
「…氷枕もあったほうがいいですか?」
「いや、これで十分だよ、お嬢ちゃん…」
オスカーは薄く目を開けて応えると、心配そうに自分を覗き込んでいる少女の手を引き寄せる。
熱っぽい氷青に見つめられ、アンジェリークはいたたまれない気持ちになってベッドから離れようと試みたが、病人であるオスカーをすげなく振り払うことも躊躇われ、諦めてベッドに腰掛けた。
「オスカー様?…何か、他にご希望でもありますか?」
「ここにいてくれ…お嬢ちゃんの都合がつく間だけでいいから…」
珍しく気弱な口調で懇願され、誰が断れるというのだろう。
殆ど条件反射のように肯いて、アンジェリークはオスカーの前髪を緩やかに掻き上げた。
「分かりました、お側にいます。椅子を持ってきますから、手を離していただけませんか?」
オスカーはいかにも渋々といった様子で少女の手を解放する。その姿がまるで幼い子供のように見えて、アンジェリークは苦笑しながら部屋の奥から大きな椅子を押して来た。
アンジェリークが離れ、そして戻ってくるまでの動作をオスカーはずっと目で追っていた。彼は少女が自分の横に腰掛けたのを確認してようやく落ち着いたらしく、再びゆったりと目を閉じた。
ほどなくして規則的な呼吸に変わり、オスカーが完全に眠りに落ちた事が分かった。


アンジェリークは時折タオルを代えながら、普段見る事のできないオスカーの無防備な姿を見守る。
彼が目を開けている時はとてもではないが直視できない端正な顔。意外と睫毛が長いなんて、こんな事でもなければ発見できなかっただろう。高く通った鼻梁、僅かに開かれた唇。近くで見れば見るほど、彼が自身に持っている自信も当然だと思えてくる。
一体何人の女性がこんな無防備な彼を見つめ、何人の女性がその逞しい腕に抱かれて眠ったのだろう。
自分はオスカーにとって決して特別な存在ではないと知っていても、それを想像する時悲しみを隠せない。
アンジェリークがオスカーに一人前の女性として認めて貰えるまで、あとどれくらいの時間がかかるだろうか。1ヶ月や2ヶ月で急に成長できるわけもない。もっと長い月日が必要だろう。
しかし、数年後にオスカーの言うところの【レディ】になれたとしても、アンジェリークがオスカーの腕に抱かれる日は永遠に来ない。アンジェリークは既にこの青年を愛していたが、だからこそ彼に愛される日が来ないことも理解していた。
数ヶ月先には新たな女王が決定する。もしアンジェリークが女王になれば、彼女はオスカーにとって手の届かない場所に昇ることになり、そうでなければ下界に戻りオスカーとは時間に隔てられ二度と会う事もないだろう。
…結局の所、自分はオスカーに触れることの出来ない存在でしかないのだ。そういう星のもとにしか生まれていない。
アンジェリークの前に横たわっている現実は、彼女に夢を見る事さえも許さなかった。


それでも、この一時にたとえようもない幸福を感じていた。


静かに部屋の扉が開かれ、執事が戻ってきた。彼はベッドに横たわるオスカーを見て、アンジェリークがそれと分かるほど驚いた表情で尋ねた。
「…お休みでいらっしゃいますか? もしかして?」
執事がどうしてそこまで驚いているのか分からなかったアンジェリークは、いぶかしげに肯く。
彼は何事かを思案していたようだったが、『少しお茶でも』とアンジェリークを客間へと誘った。
アンジェリークはオスカーの様子が気がかりではあったものの、まだ暫くは目覚める様子がないことを予想して執事の提案を受け入れた。
客間に落ち着いたところで、彼は静かに語り始めた。
「正直申しまして驚きました」
「…何にですか?」
「旦那様が、あなたをお側に置かれてあれほど熟睡なさっている事に、です」
アンジェリークが首をかしげると、彼は続ける。
「…あの方は、側に人の気配があると熟睡できないのです」
「えっ?」
「元々、オスカー様は警戒心の強い方でいらっしゃいますし、戦闘民族の出身でもいらっしゃいます。常に命の危険を感じながら生活される習慣が身についておられます。『本当に安全である』と確信できる場所でしか熟睡できない癖が、他人を側において眠れないことに繋がっているのでしょう」
アンジェリークの瞳には疑惑の色が浮かんでいる。
「…アンジェリーク様に申し上げる話ではないかもしれませんが…オスカー様は、御自分のお部屋に女性の方をお招きになったことはありません。理由は、つまりそういうことです」
呆然としたアンジェリークは、思わず手にしたクッキーを取り落とした。
「客室にどなたかをお招きしても、オスカー様がその横でお休みになることはありません。私は旦那様に長くお仕えしておりますが、今日のように誰かが真横にいるのに熟睡なさっているお姿は初めて拝見いたしました」
「…でも、今日は風邪をひいていらっしゃいますから…」
「それでも、貴方を追い返そうとはなさらなかったでしょう?」
確かに、追い出すどころか側にいてほしいと懇願された程だった。
「アンジェリーク様、私には分かりますよ。旦那様がどれほど貴方に心を許していらっしゃるのか」
穏やかに笑う執事の前で、アンジェリークは返す言葉を知らず途方に暮れていた。


オスカーの私室に戻ったアンジェリークは、麗らかな午後の時間を全てオスカーの為に使った。彼女がここを訪れた時よりは、オスカーの熱も下がったような気がする。
まだオスカーは無防備な姿で眠っている。執事の話していたような警戒心は欠片も感じられない。
執事が言ってくれた言葉は本当だろうか、とアンジェリークは考える。自分はオスカーにとって、心安らげる存在なのだろうか。少しでも特別な感情を彼に投げかけているのだろうか。
それとも、側にいても気にもとめないほど卑小な存在でしかないのだろうか。
いくら考えても答など出るはずはない。
真実はオスカーの中にしかないのだから。
洗面器の水は随分温くなってしまっている。ため息をついてアンジェリークは立ち上がる。
オスカーの瞼が動いた。
「……アンジェリーク?」
開口一番、突然名前を呼ばれてアンジェリークは飛び上がらんばかりに驚いた。何しろ、今までオスカーが自分の名前を呼んでくれたことは皆無だったのだから。
「お目覚めですか? オスカー様」
「……ああ、夢か」
オスカーは額に乗っているタオルをアンジェリークへと押しやりながら、枕元の時計を探している様子だった。
「…5時か。随分経っちまったんだな」
「気分はいかがですか?」
「…前よりは良くなったような気がする」
「お腹すいてませんか? 私、スコーンを作って来たんですけど」
「ああ…ひとつもらおうかな」
アンジェリークはオスカーが身体を起こしやすいように手助けをすると、ベッドサイドに置きっぱなしになっていたバスケットを開いた。ほんのりとオレンジの香りが広がる。
「お茶がありませんね。私、お湯を頂いてきます。ついでにお薬も飲んだ方がいいと思いますから」
オスカーにバスケットを手渡して部屋を出たところで、アンジェリークはオスカー邸の使用人をつかまえて薬と水とティーセットを受け取った。
彼女が戻ってくると、オスカーはスコーンをひとつ食べ終わる所だった。
「ごちそうさま、お嬢ちゃん。とても旨かったぜ」
「もうよろしいんですか?」
「すまない。あまり食欲がなくてな。…せっかくお嬢ちゃんが作ってくれたのに」
「私の事はいいんです。お薬いただいて来ましたから飲んでください。今お茶をいれますね」
アンジェリークは、オスカーが紅茶よりもコーヒーを好んでいることはもちろん知っていた。
しかし察するに、オスカーはそれほど食べていないにも関わらず薬を飲んでいるだろう。胃に負担をかけやすいコーヒーよりは、まだ紅茶の方が身体にも優しい。
アンジェリークは以前オリヴィエに習った『おいしい紅茶の煎れ方』を思い出しながら、そういえばオスカーに紅茶を煎れてあげるのは初めてだ、などと考えていた。
「どうぞ」
「ありがとう。今日は、お嬢ちゃんに世話をかけっぱなしだな。この埋め合わせは、いつか必ずするから、期待して待っていてくれよ」
「そんな事気になさらずに、早く良くなってくださいね。はい、どうぞ」
紅茶の香りがオスカーを包む。
オスカーは紅茶を飲みながら、アンジェリークの表情を伺っていた。少女がオスカーに向ける眼差しは穏やかで暖かい。その姿は、遠い昔に失った誰かを思い起こさせる。忘れかけていた風景を。
あれは、誰だっただろう?
    ああ、そうか    オスカーは思い至って目を閉じる。あれは、母親だ。いつだったか怪我が元で発熱した自分を見守ってくれた母親の姿によく似ている。
「…女性は、みんな母親なんだな」
「はい?」
オスカーの脈絡のない発言の意図が読めず、アンジェリークは目を白黒させている。彼はその疑問には答えず、視線を手の中のカップに落とした。
「…眠っている時、お嬢ちゃんの夢を見たよ」
さらなる追撃に、アンジェリークの動作が止まる。
「見渡す限りの草原で、子供が遊んでいる。少し離れた所に赤ん坊を抱いた君が立っている。俺が君を呼ぶと、君はとても優しい笑顔で振り返るんだ」
あまりと言えばあまりの内容にアンジェリークの頬が熱くなる。しかしオスカーは構わず続けた。
「どうしてこんな夢を見たのかは、大体分かってるんだ」
「…どうしてですか?」
「分からないかい?」
ふたりは暫く声もなく見つめ合った。
オスカーはカップを横に置くと、アンジェリークの手を両手で包んだ。
「決まってるだろう? 俺の、願望だよ」


はっきり言って、アンジェリークは完全にパニックに陥っていた。
オスカーの一言は、彼女の思考回路を狂わせるには十分すぎる威力を持っていた。
もちろん、オスカーには彼女の心理状態は手に取るように分かったが、彼の言葉は止まらなかった。
今を逃しては、この後いつこの話題に触れることが出来るか分からなかったから。
「俺は、君に側にいて欲しい。君と家庭を築きたい。いずれ俺が守護聖の任を降りる時は、一緒に故郷に帰って欲しいと思っている。普段は立場のことが頭にあるせいで無意識のうちに考えるのを避けていた願望が、熱にやられたせいで素直に表面に出てきたんだろう」
「あ、あの、それって…ええっ!?」
オスカーは少しだけ苦笑すると、表情を引き締めて語り掛けた。
「ずっと側にいて欲しい。俺と共に生きて欲しい。俺は、君を愛している」
アンジェリークの手を包むオスカーの手に力が入る。掌越しに伝わるオスカーの体温と鼓動は、これは現実に起こっていることであるとアンジェリークに知らしめた。
見つめる氷青は緊張の色で染められ、少女の返事を静かに待っている。そこにあるのは真心ばかりで、偽りはない。
アンジェリークは立ち上がり、ベッドに腰掛けた。
「…困ります、オスカー様」
瞬時に走る落胆の色に、アンジェリークはしかし優しく微笑んだ。
「困るんです    後で、熱にうなされて変な事を言っただけだって言われたら、私、悲しくて死んでしまいます」
すぐに少女の言葉の意味を悟ることが出来なかったのは、やはり本調子ではなかったからだろう。
止まりかけた思考を奮い立たせて考えた末に現れたその意味に、悲しみを宿していたオスカーの瞳は喜びに包まれた。
「…アンジェリーク…!」
オスカーの腕がアンジェリークの背に回される。少し身体の角度を変えて抱擁に応えるアンジェリークは、静かに涙を零していた。
少年のように躊躇った後で、ようやくオスカーはアンジェリークの頬を流れる涙に唇を寄せ、そして空気が触れる程の口付けを交わした。
「…今度は、熱が下がった時に言ってくださいね」
はにかんで呟く声に、オスカーの囁きが重なる。
「一眠りすれば熱なんて下がっているさ」
青年は少女の金の髪に顔を埋め、肩にもたれるようにして目を閉じる。
「…だから…次に目覚めた時もここにいてくれ。君がいてくれると、ひとりでいる時よりも安らげるんだ…」
既に半分以上眠りの世界に落ちながら、オスカーはアンジェリークの了承を待たず、寝心地の良い場所を探して少女の膝に頭を乗せた。
「おやすみなさい、オスカー様…」
白い指先が、緋い髪をそっと撫でた。



負けるのが嫌で
諦めるのが嫌で
意地を張る事に慣れた あなたの
壊れかけた心
凍えそうな夢
抱きしめる愛になりたい


傷つくことを恐れない
何を捨てても構わない
ただ あなたを暖める掌(てのひら)が
私にある限り


その眼差し その優しさ
その声を思う時
少し疲れたあなたの横顔に
幸せ感じてる


いつかの悲しみ あの日の喜び
忘れられない記憶
あなたを包むすべての時間ごと
抱きとめる愛になりたい



2000.1.17
Yuuki Sasaki

「たなからぼたもち」的にいただいてしまった佐々木優樹さんのキリ番創作。

「『看病ネタ』で書いてほしいです〜。」と、おねだりしてしまいました。

佐々木さんの書くオス×アンはとっても素敵でどきどきものなのです。