◇  Waves Of Love  ◇

 

 

 女王が治めるこの宇宙の長い長い歴史の中でも未曾有の危機──「皇帝」と名乗る存在による侵略は、宇宙に、聖地に、女王その人に、そして守護聖らの心身に大きな傷を残した。
 皇帝の野望は潰え、この宇宙の壊滅こそ回避されたものの、その傷の全てが癒えるまでにはまだ長い時間がかかるだろう。
 何よりも、宇宙を支え導き癒すべき大いなる存在がその力のほとんどを奪われ、傷つき消耗した身を横たえていることが、ひそやかな憂いの中に全てを沈み込ませていた。

 

 皇帝の魔手から逃れるべく、最終決戦へ赴いた五名を除く者達に守られて辺境の星へと匿われた女王アンジェリークは、東の塔からの脱出後に意識を失って以来、ずっと深い昏睡状態にあった。
 とはいえ明らかに危険な状態というわけではなく、一時はすっかり弱まったそのサクリアもゆるやかに回復の兆しを見せ始め、体調そのものにとりあえず異常は認められないとの診断も下されてはいる。
 だが、現実に昏々と眠り続けて目覚める気配すら見せない彼女を見ては、よもやまさかとは思いながら、もしやこのままという一抹の不安に揺れてしまうのも無理からぬことだった。
 彼女を守って避難先の惑星へ同行した者達は、一刻も早い彼女の目覚めを祈りつつ、どこかそんなしんとした憂いに心ふさがれる隠遁の日々を送っていた。

 そしてついに勝利の報を手に彼らに合流した五名――殊に炎の守護聖に、そんな女王の容態を伝えねばならないというのは、ロザリアにとってひどく胸の痛むことだった。
 それでも全てを告げないわけにはいかない。特にオスカーには。それがどれほど悪い知らせでも、彼には知る権利がある。

「――陛下のサクリアそのものは、その後も少しずつ回復しつつあります。ただ、意識だけが戻らない状態がずっと続いているのです。あらゆる手を尽くしているのですが、まだ……」
 感情を抑えて彼女が告げた言葉に、オスカーは一度だけ体を震わせ、精悍な面を蒼白にして唇を真一文字にひき結んだ。その心中を慮り、ロザリアは喉元がきゅっと詰まるのを感じた。
 オスカーとアンジェリークがどれほど深く愛し合い、かけがえのない存在として互いを大切に思っているか、一番よく知っているのは自分だと思う。
 きつく拳を握り締め、激しい動揺を自分の中に抑え込んで張り詰めているオスカーの全身が、彼女の身に万一のことあらば宇宙など救われたところで何の意味もないと、声なき声で狂おしく叫んでいるのが聞こえてくるようだった。

「…………陛下にお会いしたい」

 ようやく低く絞り出された彼の声は、苦痛に歪み、掠れていた。
 ロザリアは、一瞬気づかわしげな瞳をオスカーの上に投げた。
 彼自身、疲労の色が濃い。長い連戦の間ずっと前衛に立って戦い続けてきたオスカーの心身は、本当はこうして立っているのも辛いほど疲弊しているものと思われた。
 本来なら、心配せずに今は下がって休むよう命じるべきなのだろう。だが、どんなに彼自身の体が休息を要していても、会わせてあげないわけにはいかない。それも、今すぐに。
 恐らくは、アンジェリークの無事な姿を目にすることだけを心の支えとしてここまで戻ってきたのだ。彼の今の苦痛はいかばかりだろう。無理に休養を命じても、一瞬たりとも休むことなどかなうまい。
「…医師たちは陛下のご容態について、身体上は既に十分な回復を示されていると言っております」
 ロザリアはオスカーの苦悩に翳った瞳をまっすぐ見つめながら言った。
「傷ついた精神が、未だ闇の底に囚われておいでなのではないか、と。…あなたの声ならば、届くかも知れません――」
 そう言ったところで、平静を装っていた補佐官の仮面が不意に外れ、ロザリアの瞳が大きく揺れた。
「ついていて差し上げて下さい、オスカー様。陛下はまだ闘っていらっしゃるんです。どうぞ…支えて差し上げて……」
 後は言葉にならなかった。
 心痛に顔を歪めたオスカーがそれでもしっかり頷くのが、涙の向こうに揺らいで見えた。

◇◇◇

 天蓋付きの大きなベッドの中で、彼女の体はいかにも小さくはかなく見えた。
 関節が白く浮き上がるほど強く剣の柄を握り締めたまま、ゆっくりと歩みよってベッドサイドに立つと、オスカーは震える指でアンジェリークの額にかかった金の髪をそっとかきあげた。
 血の気のない真っ白なその寝顔にひどく胸が騒ぐ。あまりに静かに眠るその動かし難い様子に、不意に呼吸をしていないのではないかとの恐れが突き上げた。
 一気に押し寄せる不安にオスカーは心底震え、剣を外して少しだけ鞘から引き抜くと、彼女の口元へと近づけてみた。
 鏡面のような刃の上に、微かな曇りが浮かぶ。思わずほっと全身の力が抜けた。その途端、立っていられないほどのめまいを感じ、オスカーは傍らの椅子にどっと座り込んだ。

 彼女は今もまだ闘っているのだという、ロザリアの声が蘇った。
 生気の感じられない白い面の下で、彼女の精神は今どれほどの苦しみにさらされているのだろう。その全てをわが身に引き受けられるものならばと思い、オスカーは顔を伏せて低い呻きを漏らした。
 ――守りきれずに虜囚の憂き目を見せてしまったのは、自分の落度だった。
 長い戦いの日々、彼を密かに苦しめてきたそんな自責の念が蘇って、激しく身を噛む。オスカーは奥歯をぐっとかみしめ、それからゆっくり顔を上げると、苦しげな声で囁いた。
「目を開けてくれ、アンジェリーク」
 その翠玉の瞳が幸福そうな光にきらめくのがもう一度見られるならば、自分の命など何度投げ出してもいいと思う。
 オスカーはせつなげにアンジェリークの顔を覗き込むと、軽く指の背で彼女の頬を撫で、喉の奥に小さく乾いた笑い声を立てた。
「いつまで寝てるつもりだ、眠り姫。君の為に戦った騎士に、せめてその微笑みを与えてはくれないのか…?」
 そっとかがみこみ、いつもよりもひんやりと感じられるその額に、瞼に口づける。それから彼は、きゅっと結ばれたままの小さな唇に唇を重ねた。
「アンジェリーク」
 唇を触れ合わせたまま、わななく掠れ声で呼ぶ。
――だが彼女の唇が彼に応えることも、その瞳が彼を見返して輝くこともなかった。
 一瞬胸を掠めた落胆を押し殺し、オスカーは彼女の頬を包み込むようにしながら更に呼びかけた。
「一人で闘おうとするな、アンジェリーク。俺がいる。俺がここにいる。…戻ってこい、アンジェ」

 微かに、彼女の睫が動いたような気がした。

 オスカーは期待と不安の狭間に揺れる胸を抑えながら、アンジェリークの手をとってそっと握った。
「アンジェリーク」
 力強く呼びかけた瞬間、瞼がぴくりとひきつった。沸き上がる希望に、思わず手に力がこもる。
 今度ははっきりと、アンジェリークの眉が苦しげに寄せられた。
「………ス、カ……さ、ま…」
 わずかに開かれた唇から、ほとんど子音しか聞き取れないくらいの声が漏れた。
「俺はここだ」
 オスカーはしっかりと彼女の手を握って、熱のこもった声で呼びかけた。
 アンジェリークの体が、小さく震えた。
 それからその瞼が重たげに上がり、半分ほど開いたところで止まった。
「アンジェ」
 重ねて呼びかけると、彼女は二度ほど瞬きし、焦点が合わないかのようにちょっと眉間に皺を寄せ、それから微かに首を巡らせてオスカーの方を見た。
 一瞬の間があって、アンジェリークがオスカーの姿をそれと認めたのがわかった。
 その途端、ぱあっと光が射すように、彼女の面に柔らかな笑みが広がった。まるで、夜明けの光を見るかのような美しさだった。

「無事だったのね」
 アンジェリークが、微かな声で囁いた。
 安堵と共に突き上げる、途方もない愛おしさと泣きたいようなやるせなさに、オスカーは握りしめた白い手を額に押し頂くようにしながら、一言だけ
「すまなかった」
と囁きを返した。
 アンジェリークは小さくかぶりを振って、ふわりと幸福そうな微笑みを浮かべた。彼がその短い言葉にこめた諸々の思いを正しく受け止め、その上で全て丸ごと受け入れて赦す、そんな微笑みだった。
 その笑みの美しさに打たれ、オスカーは言葉もなく彼女の手をしっかりと握り、想いのたけをこめて碧の瞳をひたと見つめた。
 彼のその手を一度小さく握り返すと、アンジェリークは再び目を閉ざし、すうっとまた深い眠りに落ちていった。
 ──今度のそれは、見るからに健やかな眠りだった。
 その唇には微笑みの名残があり、息づかいにも生気が戻っている。 安心しきったようなその表情にオスカーは深く安堵し、頭をたれて呟いた。

 ただ一言。感謝します、と。

◇◇◇

 次に目覚めた時、アンジェリークの心は澄みきって軽く、とても満たされた気分だった。
 随分長く眠っていたようだとの自覚はあったが、そういった時に特有の気怠さはこれっぽっちも感じられない。自分でも少し奇異に感じるほど、すっきりと完璧な目覚めだった。
 ベッドサイドに目をやると、オスカーが先に見た時と全く同じ姿勢で剣を抱えて傍についていた。
 アンジェリークが彼を見ながら少し口元をほころばせると、オスカーも柔らかく微笑み返し、そっと覗き込んで静かに問いかけてきた。
「気分は?」
「とってもいいです」
 アンジェリークはそう答えながらベッドの上に半身を起こした。さっとオスカーの手が伸びてきて、彼女を支えようとする。が、その助けが全くいらないくらい、心も体も軽かった。

 自分の中に、力が戻ってきているのが感じられる。すっきり冴え渡った心に宇宙の健やかな波動が快く添ってくるのを感じて、アンジェリークは思わずにこりと微笑んだ。
「皇帝の脅威は、もうなくなったのね…?」
「ああ。もうあいつはどこにもいない。この宇宙は救われたよ、アンジェリーク」
 オスカーが小さく笑みを返してくる。その面に深い憔悴の翳りを見て取って、ふとアンジェリークの微笑みが消えた。
「オスカー様、お怪我は?」
「俺は大丈夫だ」
 オスカーは力をこめて言い切り、安心させるようにしっかり頷いて見せたが、彼女の面は晴れなかった。アンジェリークはしばらく彼の顔をじっと見つめ、それからごく真剣な声できっぱりと言った。

「あなたには休息が必要だわ」
「俺は大丈夫だ。休むよりも、君の傍にいたい」
 即答で繰り返すオスカーに、アンジェリークはきゅっと唇をひきしめてかぶりをふった。
「全然大丈夫じゃないです。お願い、休んで下さいオスカー様」
 断固としたその口調に、オスカーはちょっと不本意そうに反論した。
「ダメだ。君を守らなければ。ここは聖地とは違う」
 彼らしくない、理屈になっていない理屈をこねるその声に滲む痛みに、アンジェリークはみぞおちのあたりが引き絞られるような感覚を覚えた。
 彼女をみすみす皇帝の手に落としたことで、彼はまだ自分を責めているのだ。いつもなら自分に必要な休息をとることも役目のうちと考えているようなオスカーが、こうもかたくなになっているなど、他に理由は考えられない。きっと、心身に降り積もった疲労のために心をふさぐ自責から抜け出せず、苦しみのあまりに自分で自分を罰しているのだ。
 そんな風に自分を責めて欲しくなんかない。

 アンジェリークはするりとベッドから降りると、オスカーの両手を掴んでぐっと引っ張り、有無を言わさずベッドに座らせた。その隣に寄り添うように腰掛け、アンジェリークはしっかりと彼の目を捉えたまま強い口調で訴えた。
「お願い。どうか休んで。そうして私にもあなたを守らせて」
 一瞬の沈黙の中で、ちらりとオスカーの瞳に理解の色が浮かんだ。
 だがまだ感情の方が納得していないのだろう、なおも「しかし」などと言い募りつつ立ち上がろうとするオスカーに、アンジェリークはすっと手をさしのべてその指先を彼の額に当てた。
「眠って」
 彼女はオスカーの目をまっすぐ見据え、決然と言った。

 その凛とした響きと共に、ひんやりとした指先から流れ込んでくるサクリアの波に包まれて、オスカーの体からがくりと力が抜けた。
「……ずるいぞ」
 オスカーがくぐもった声で呟く。
 彼女の温もりが残るベッドの上に半分くずおれるようにして眠りに落ちながら、彼は 「二時間たったら…」 と小さく絞り出した。
 そんな彼を優しく見つめて、アンジェリークは柔らかい微笑みを浮かべた。

 彼は「守りきれなかった」と言うけれど、本当はいつでも守ってくれていたと思う。
 皇帝の結界に封じられていてさえ、オスカーの存在だけはずっと微かに感じられていた。それがどれほど心強かったことだろう。
 力を失い、自分を失い、虚無の中に囚われていた心を救い出してくれたのも彼だった。
 どこまでも落ちて行ってしまいそうな白い闇の中から引き上げてくれた力強い声を、はっきりと覚えている。
 そう思いながら、アンジェリークはオスカーの硬い髪をほっそりした指で優しく梳いた。

 オスカー様。
 あなたの愛が、あなたへの愛が、どんなに辛く不安な時にも私を支え、守ってくれた。
 信じる心が、恐れに打ち克つ強さをくれた。
 誰かを、何かを守りたいと思う気持ちは、人を強くする。 あなたがそれを教えてくれた。
 そして、尽きることのないあなたへの想い、それが私に力をくれる。
 …あなたをどんなに愛しているか。

 深い眠りに落ちた彼の背にそっと上掛けをかけてやり、そして上掛けごときゅっと抱きしめて、その髪の上に口づける。薄い布越しに伝わってくる彼の温もりに、心の底まで暖まる心地がした。

 ゆっくりと身を起こし、眠る彼を見つめるうちに、アンジェリークは身内に力が滾々と溢れてくるのを自覚した。
 うち寄せる波のように限りなく湧き上がってくる彼への想いが、自分の存在の根源から大いなる力に満ちた光を引き出してくるのがわかる。

 ──あなたを、どんなに愛しているか。

 胸を満たす思いに誇らしげに微笑むと、アンジェリークは軽く目を閉じて両腕を開き、体の奥底から溢れてくる愛しさの波に心を委ねて解放した。

 …愛する宇宙よ、この心を受け取って。この人が愛し、命をかけて守りきったこの宇宙を、私は癒し、守りたい。

 大きく沸き立ち広がる金の光の波動の中で、潮騒にも似た響きが押し寄せてくる。
 アンジェリークは唇に微笑みを乗せたまま、その響きの中に溶け込んでゆく自分を感じ、自分自身が大きく広がって宇宙を覆い尽くしてゆく一体感を感じた。
 彼女は宇宙であり、宇宙は彼女だった。
 渇きを潤された星々が喜びに震え、こだまを返してくる。こだまは彼女と溶け合って、新たな波動を生み出し、更なるこだまと干渉し合って広がってゆく。
 幾千万の鈴を震わす響きにも似たその果てしない共鳴の中で、アンジェリークは失われた力が全て自分の中へと戻ってくるのを感じてゆるやかに微笑んだ。

◇◇◇

 誇り、安らぎ、勇気、優しさ。
 豊かさ、器用さ、美しさ、知恵。
 そして、何ものにも枉げられない強さよ。
 この愛の波動に乗って広がり、宇宙の全ての命に届け────